仕分けの日当が入った茶封筒を社員さんから受け取った。あいた手で作業ズボンにこびりついた土と埃を払う。指が二本、黒ずんだ。いったん産声を上げたよごれは二度と消えない。暖かいところから寒いところへ熱が伝わるように、よごれも右から下に移るだけだ。
夕立でうるおったアスファルトに赤い糸がぴったりと張りついていた。頬をカッターナイフでなぞったように細い赤。長さは40センチほどだろうか、どちらかというと短いほうだ。
赤い糸をみつけたのは二週間ぶりだった。俺は無駄だとわかっていながらしゃがみこみ、さっき黒く汚れたばかりの指でなぞった。触れる分には問題ない。端から端までを何度かこすってみたけれど、思ったとおり赤い糸は消えなかった。わかりきっていることだ。
この糸は誰かがまたぐまで残っている。
うっかり赤い糸をまたいでしまった不運な誰かは、手の届く近い未来に命を落とす。
最下層の高校を卒業した俺は、半年間のぷーを経て清掃のバイトを始めた。赤い糸をちらほらとみつけるようになったのは仕事に馴れ始めた頃だ。その日は優しい雨がおりていた。
「おかしなものが落ちてんな」俺はつまんで拾おうとした。最初は本当に糸だと思ったんだ。けれど、たしかにそこにあるのにまるで感触がない。糸じゃないのか? モップで拭いてみた。新手のスクラッチだろうか。ショップのガラスだけじゃ飽き足らずついに路上まで標的にする馬鹿が現れたのかと呆れながら。少しは掃除をする身にもなってくれ。
「なにやってんだ。行くぞ」
先輩の怒鳴り声。
「でも、これ」
「これ? そこはさっき俺がやっただろ。俺の仕事に文句があんのか?」
「いえ。すいません」
俺は先輩を掃除人として尊敬していた。適当に仕事をするような人じゃない。だから薄々気づくことができた。この糸、ほかの人には、少なくとも先輩にはみえていない。気味が悪くなった俺は糸を迂回して違法駐車中の作業車に駆けた。
助手席に乗り込んだ俺は糸のあった歩道に目をこらした。なくなっている。
事故が起きたのは先輩が車を出した直後だった。俺たちが作業していた歩道に4t車が突っ込んだ。
赤い糸をまたぐと人が死ぬ。俺がそう考えるようになったのはそれから二ヶ月後くらいだろうか。名前の知らない三人が俺の目の前で死んだ。俺は必死にモップを走らせた。なんだよこれ。油性のインクを中和する業務用洗剤をぶっ掛けても消えない。どうやっても駄目だった。投げやりに削ってみたこともある。もはや掃除じゃない。赤い糸は新しい断面に残っていた。もしかしたら光のような存在かもしれない。仮に写っているものだとしたら、いくらスクリーンに手を掛けたところで意味がない。
諦めた俺は、バイトじたいを辞めた。きちんと綺麗にできないのに金をもらうのは申し訳なかった。
肩とひざの鈍痛で足が止まる。電柱に手を掛けている姿は場末の酔っ払いにみえるかもしれない。もうすぐだ。足を引きずりながら四人乗ればいっぱいのエレベータに身体をすべりこませる。
雑居ビルの一室のインターフォンを鳴らすとまどかさんがドアをあけた。尻ポケットから茶封筒を出してそのまま渡す。情けない姿であることはわかりきっているが格好をつけてもしょうがないし、そもそも最初から整える格好なんて持ち合わせていない。
「きてくれるのは嬉しいんですけどちゃんと病院に行ったほうが」
そんなに、俺はひどい顔をしているのだろうか。
身体を痛めて稼いだ金で身体をいたわる繰り返し。
「施術中の自慰行為はご遠慮ください」
張り紙をみるたびに俺は吹きだしそうになる。この町では下の世話をする店もしない店も同じメンズエステの看板を掲げている。2、3件店に顔を出せば料金の相場と店の雰囲気からどちらのタイプであるか判断できるようになるのだけど中には怒り狂う客もいるらしい。勝手な思い込みとはいえ、肩透かしを食らった客の悲哀を想像すれば同じ男として気持ちがわからないでもないけれど。それでこの張り紙だ。想像するに「じゃあ自分でやる」という猛者がいたのではないだろうか。おまえの部屋でやれよ。
「他のお客さんにはお仕事がんばってくださいって申し上げるんですけど」
「そんなにひどいかな」
「できればきちんと治してからきていただいたほうが。ごめんなさい。肩は怖くてさわれません」
「怖い?」
「みたことないくらいに炎症を起こしているんですよ。下手にもんだら余計に悪くなると思います」
「そっか。わかった」
「よくなったらご飯でも食べに行きませんか?」
「ありがとう」
服を着て部屋を出ようとした俺は息を呑んだ。
また赤い糸か。一日に二度みたことはない。それも、こんな。
二メートルを超える糸が床に収まりきらずに壁まで伸びている。それも一本じゃない。びっしりと絨毯のように。
「嘘だろ…」
「なにがですか?」
先に扉をあけてくれようとしたまどかさんの腕をつかんで制する。「嬢に触れるのは厳禁です」もう一枚の張り紙を思い出す。わかっている。だけど、俺の代わりにまたがせるわけにはいかない。金でつながった関係だけど、馬鹿だとわかっているけど、俺は少しずつまどかさんのことが好きになっていた。名前を知っている人が目の前で死ぬのは嫌だ。それがたとえ本当の名前じゃなくても。
「――さん?」
気が遠くなりながら、それでもなんとか言葉を絞り出す。
「一生のお願いがあるんだけど」
「なんですか、急に」
「今日、見送りはいいからそのまま部屋に下がってくれないかな」
「どうしたんですか? ちょっとへんですよ」
俺の頭がおかしいだけなら救われる。すべてが偶然で、実際には赤い糸なんか一本もなくて。運命も決まっていなくて。
「お願いだから」
まどかさんは「わかりました」と答えてくれた。不機嫌に。
またいだら糸が消える。
消えた糸はどこへ行くんだろう。
からだの、中か? それとも心の。
他の客が来るまで待つ悪意が脳裏をよぎった。どうせよごれは消えやしないんだ。誰かに押し付ければいいじゃないか。
これまで避けてきた赤い糸が全部ここに集結しているかもしれない。そんなふうにも考えた。だけどもういいんじゃないか? 順番がまわってきた、それだけの話だ。肩が、痛い。
俺はどうやって死ぬんだろう。撥ねられるのか、それとも刺されるのか。
痛いのは嫌だな。血を流して。
―血。
「これ、血の色か?」
上着の右ポケットには軍手が、左ポケットにはカッターナイフが入っている。どちらも仕事で使っている。
後から考えれば、俺は気が触れていたのかもしれない。
そう。俺は、後から考えることができたんだ。天国でも地獄でもない、ここから。
いったい何を思ったのか、俺はカッターナイフを手首にあてた。どうせ死ぬなら苦しまないように自分で。そうじゃない。自分でもよくわからないけど、おそらく俺は試そうとしたんじゃないだろうか。手首が熱い。
赤い糸と血の色は本当に一緒なのか?
一滴、二滴と足先に落ちた。いつかの雨みたいにゆっくりと。「同じだ」俺はそう呟いたような気がする。
まったく同じ色だった。見分けがつかない。
すくってみる。指はしっかり赤くなった。糸はさわれない、血の赤だ。
「なんだ?」
指で触れた部分だけ、元ある床の色に戻っている。糸が、消えてる。
俺は左手を強く握り締めた。だらしなく溢れて落ちた赤を軍手で拭く。消えてる。血で血を洗うとはこういうことなのか? たぶんちがう。けれどたしかに消えている。
同じ色だから、そんな単純な理由で糸と血が同化するなんてことがあるのだろうか。血が触媒になって、どう考えてもこの世のものじゃない糸がこっちと結びついて。いや、それとも手首を切った俺があっちよりに、だから―
「なにしてるんですか!」
まどかさんがおびえきった瞳で俺をみていた。いつからいたんだろう。仮に生き延びたとしても二度とここにはこれない。どっからみても立派に気が違ってる。俺は、まどかさんが誤って赤い糸をまたがないように、すべて拭き取った。ご飯か。キャバクラのアフターみたいなもんだろうか。それでも嬉しかった。一緒に行きたかった。デートだと誰かに話せば笑われるだろう。それでも良かった。
「ちょっと汚した。ごめんね」
俺は手首を押さえながら頭を下げた。
そういうわけで生きながらえた。バイトは辞めた。また辞めた。完全に肩が上がらなくなったのだから仕方ない。仕事にならない。
あれからも時折赤い糸を目にする。何も変わっていない。俺はまわりに誰もいないのを確認してから指先を傷つけて糸の上に赤を落とす。靴の裏でぬぐえば綺麗なもんだ。血で町を汚している奴がいたら俺だと思ってくれて構わない。だけどできることならそっとしておいてほしい。立ちションよりはいくらかましじゃないだろうか。わかんないけど。
俺は俺の身がかわいい。命を賭けないと消せないような大物は見なかったことにしている。あのときも思ったけど、すべてが妄想だったら俺はそっちのほうがいい。そこら中に赤い糸が落ちているよりも気違いがひとりうろついてるほうが、間の抜けた、正常な世界だから。
ふたたび清掃業のバイトに就いた俺は二十三条公園のすべり台にちょこんと張り付いた赤い糸を消していた。
「やっとみつけた」
たとえ目をつむっていてもわかる、まどかさんの声。
「どうして」
「どうしてじゃないでしょう。みんなに訊いてまわったんですからね」
「みんな?」
「あたし、結構友だち多いんです」
負けた俺は顔を上げる。腕を組んだまどかさんが睨みつけていた。いつ以来だろう。引きつったようにしかみえないだろうけど、俺は笑っていた。課長に昇進した先輩は、遠くから俺を見つめて、そしてうなずいた。俺よりも気味が悪い。目を細めて微笑んでいるのはどうしてですか。
そういえば、そもそもあの店に初めて俺を連れて行ってくれたのは。
「全部話してください」
「信じないよ」
「もったいつけるような人じゃないでしょ?」
「ちがう」
「全然何がなんだかわからなかったけど、もしかしてあたしを守ってくれようとしたんじゃないですか?」
「なんでそう思うの?」
「今度は否定しないんですね」
空を見上げる。朱を投げろ、蒼を拾え。誰の歌だっけ。
「肩は治りました?」
「仕事が変わって、少し良くなった」
「ご飯行きましょう。それからお買い物。どうしていっつも同じ上着なんですか」
彼女の肩に手を伸ばして赤い糸をつまむ。みえないように握りしめた。
「運命の赤い糸を信じる?」
まどかさんが首をかたむけて、俺はもう一度笑った。