彼女との暮らしが始まって七つ目の夜が訪れた。
「今日も遅かったね」
静川さんはテーブルに頬杖をついている。ガラスの天板は幼い蜘蛛が巣を張ったようにひび割れている。一昨日の、彼女の感情が形に成ったのだ。喧嘩のきっかけを思い出すことができない。どうやって仲直りしたのかも、思い出せない。どちらもなかった。それだけのことかもしれない。
「少しだけ忙しくて。ご飯は?」
「カレー」
「今日も?」
一週間連続のカレー。元々料理が得意でないことは知っていたけれども。
「今日は辛口に挑戦してみた」
大量のカレーを作って消費に苦労しているという類の話ではない。俺の部屋に大きな鍋はない。彼女は一晩で食べ切るカレーを煮込んでいる。毎晩。
「野外研修で、カレーと豚汁は一度にたくさん作った方がおいしいって習いませんでした?」
「行ったことがないから知らない。焚き火は好きだけどキャンプファイヤーは嫌いだし」
ジャケットを脱ぐと彼女が立ち上がった。何も言わずに手を差し出す彼女に渡すと掛けてくれた。
台所にある鍋と調理具。まな板に包丁が突き刺さっている。柄を握って抜こうとする。まな板が浮いた。
「この、包丁を差す癖は直した方がいいんじゃないですか」
「鞘がないから」
何事も形から入る彼女は鋼の牛刀を選んだ。銘にはこだわっていない様子だった。「折れなければいい」何を斬るつもりだ。「ハガネは錆びますよ。手入れが面倒くさい」「椎名の感性と一緒だね」「俺?」「おじいちゃんになったら、今よりは鈍くなるでしょ」「たぶん」「だから、ハガネがいい」常に研げ。彼女はそう言いたかったのだろうか。それとも俺は手間が掛かると言いたかったのだろうか。
垂直に立つ包丁の刃をキッチンペーパーで拭う。水のしずくと薄い紅。
「指切ったの?」
ご飯を盛る彼女に問い掛ける。皿を置き、左手を見せてくれた。親指の腹に一閃の傷。
「血が止まらなかったら吸ってもらおうと思ったんだけど。残念ながら問題ない」
シャワーを浴びる。リビングに戻ると明かりが落ちていた。テーブルの上に、火が灯っている。ゆうに三十を超えるキャンドル。生クリームに座る苺。血が通っているように見えた。
「お誕生日、おめでとう」
「ああ、そうか。そういうことですか」
「歳とったね」
静川さんが笑う。それをいうなら――テーブルが粉々に破壊される気がした。言葉を飲んだ。
「ありがとうございます」
一週間前、静川さんから「新婚生活をやってみよう」と連絡があった。また何か、厄介な仕事を引き受けたのだろうかと考えた俺は「いいですよ」と返した。旦那さんはスーツを着るべきだと言われた。そして、家に帰ったらジャケットを妻に渡すものだと。同僚の問いが煩わしかった。服装は自由だから何を着ても問題ない。職場でスーツを着ているのは俺と代表だけだった。
静川さんは、俺に家庭を贈ってくれたのか。
火を吹き消す。明かりをつける。
「家を守るってことが凄く大変だということがわかった」
「暇でした?」
「計算して比べちゃうの。私のカレー、びっくりするくらい高いよ」
「今日のは、おいしかった」
彼女は笑顔を浮かべ「ケーキ食べよ」と言った。
「セックスも込みだったんですか?」
左腕に頭を乗っける静川さんに訊いてみた。
「もちろん」
即答だった。七日間の我が闘争は無駄だった。我慢しなきゃ良かった。
「明日帰りますか?」
「うん」
「そっか」
「私、結婚できると思う?」
「静川さんが望むなら」
「子供も?」
「うん」
「お母さんになれるかな」
「たぶん」
顔をこちらに向ける。髪がくすぐったい。
「私の子供は、私を殺そうとしないかな」
「どうしてそう思うんですか?」
「そう思ったことがあるから。血は争えないっていうでしょ」
熊のような自分の親父を思い出す。最後に会ったのはいつだろう。一度だけ、本気で殴り合った。完敗だった。
「椎名は? どっちに付く? 正しいと思う方? それとも弱い方?」
「静川さんと子供?」
「そう」
「和平の道を探します」
静川さんが首を振る。「椎名らしい答えだけど、それは嘘。椎名は子供に付くよ。それでも私のお父さんよりはマシ。あの人は目を閉じて耳をふさいだ」
「静川さん」
「ん」
「前提が欠けてる」
「どんな?」
「静川さんはどっちの味方をしてほしいんですか?」
彼女の瞳が俺をとらえる。明かりのない部屋、瞳孔が少しだけ広がっている。目を逸らしたら爪を立てられるという直感があった。黙って彼女を見返した。
ややあって、静川さんが笑い声を上げた。闇が晴れていく。部屋が、少しだけ暖かくなる。揺れる髪が、くすぐったい。
「そうだね」
「どっち?」
「私が間違った時は、私から子供を守って」
どちらも正しかった時は。訊き返さなかった。同じことだから。
「静川さんの子供か。静川さん以上かな」
「どういう意味かわからないけど、相手次第っていう気もする。ああそうだ」
「なんですか」
「ずっと気になっていたんだけど」
「はい」
「仕事から帰ってきたらただいまって言わないと駄目」
「そういうもんか」
「親から教わらなかった?」
野外研修の話に対する仕返しだろうか。
「親、あんまりいなかったから。明日からは、言います」
「誰もいないのに?」
「いなくても」
「たまには聞いてあげるよ。それと」
「はい」
「エッチする?」
吹いた。明日の朝食か、そうでなければ天気の話をしているような口ぶりに。
「静川さんを名前で呼べるようになるまでは、資格がない」
「無資格無免許上等なのに。わかった。おやすみ、椎名」
来年の誕生日は「おかえり」を希望しようか。忘れないようにしないと。スーツを着なくてはならないという規律が面倒だけど。
おやすみなさい。頭をなでるとキスが返ってきた。